静寂の中で、君を想う。
空からの、空へのラブレター
第3章 思い出
第3章 「思い出」
私が目を閉じると、目の前に車が突っ込んできて、私を轢く。
私が目を開けると、もうここにはマリアがいないという現実が、私を壊す。
それは、突然始まった終わらない拷問だった。
「幸せの絶頂に訪れた絶望」という歌詞がある日本の曲がある。
お姉ちゃんはよく日本の歌を私に教えてくれた。
「南イタリアでは特に、仕事がないからという理由でたくさんの人が海外に行くんだよ。私達の住むトスカーナはまだ仕事があるほうだけど......。多くのイタリア人は夢を求めて海外に行くけど、もしも私だったら日本に行くかな。いつか私が日本に行ける日を夢見て、私は少しだけ日本語を練習しているんだ。」
そう言ってお姉ちゃんが見せてくれたのは、「あいうえお」と書かれたノートだった。
「お姉ちゃんはなんで日本に行きたいの?」
「イタリア料理がたくさんあるからだよ!」
繰り返される映像の中で、私達は笑っていた。
いま、私は泣いている。
彼女の不足にこれ以上耐えられそうになかった。
お姉ちゃんが私を抱いたまま車に轢かれ、ただ私は心をなくしたままその光景を見つめる。
その光景を空の上から見つめているかのようだった。
「118番に電話して!」という誰かの叫び声と、必死にお姉ちゃんや私の手を取り何かをしようとする人。
遠くから救急車のサイレンが聞こえる。
それは、私の脳裏で繰り返し再生される映像だった。
その映像が繰り返し再生され、私は深い沼へと引きずり込まれていく。
暗くて、底が見えない沼だった。
「そっちにはいきたくない!」私は必死で叫んだ。
私は、死んでいる最中だった。
*
私は、それから7回自殺を試みた。
この拷問から唯一逃れられる方法は死だけだった。
お姉ちゃんに会いたい。その思いだけだった。
死にたいと思って泣いた夜の数を私は数えることができない。
お姉ちゃんのことを思って泣いた夜の数を私は数えることができない。
ただ、この真っ黒の日々が永遠に続いていくと思っていた。
何度誰かに助けを求めたいと思ったことだろう?
何度誰かに縋りたいと思ったことだろう?
死にたくもない。生きていたくもない。
私が生きているのは、惰性からだ。
私はただ、この苦痛を終わらせたかった。
もしできるなら、あの日の前に戻りたかった。
もしできるなら、あの日私が代わりに死にたかった。
何をしていても、一日中消えない記憶。
記憶はまるで影のように私に付き纏う。
何故、その影は消えてくれないのだろう。
目を閉じれば楽しかった日々が蘇る。
ただその日々は、もう永遠に写真の中にしかない。
私が欲しいのは、思い出ではなく「今」であるのに、それは絶対に手に入らない。
私は、人生は永遠に続くと思っていた。
少なくとも、平均寿命までは生きているものだと、漠然と思っていた。
誰か好きな人ができて、結婚して、こどもを産んで、そして働いて、そのうえで人間は死ぬのだと思っていた。
当たり前のように「おやすみ」の後には「おはよう」が、そして「おはよう」の後には「おやすみ」が来るのだと思っていた。
太陽は東から上り、西へ沈む。
そして夜が来るけれど、その夜は必ず朝になる。
そう思っていたのに、それはただの幻覚だった。
私は甘い夢を見ていたようだった。
その「日常」は、いつしか「当たり前」となっていた。
その「当たり前」は、あっという間に壊された。
*
「お母さん、私は一人で旅行に行きたい」
私はある日そう思ったのだ。
死にたい気持ちはあった。それは今日になっても消えなかった。
私が代わりに死ねばよかったという罪悪感は、毎日私を追いかけた。
だが、それと同時に、「死んではいけない」という思いがあった。
それは、ラウラとの出会いがきっかけだった。
私はこの終わりのない迷路からの出口を探すために、誰かに縋ろうとした。
そしてその「誰か」を見つけるために、私はインターネットという名の海に飛び込んだ。
かつてマリアからの手紙を持ってきた人が言っていたように、私は誰かに助けを求めなければならないと思った。
そして私はFacebookを使うようになった。
はじめに、私は"Depressione(うつ病)"と入力し、検索により見つかった複数のグループに参加した。
1日後、私はすべてのグループで歓迎された。
「皆さんこんにちは。私はキアラです。交通事故で姉を亡くしてから、毎日がつらいです」
簡潔にした自己紹介には、多くの人が反応した。
「それは大変だったね」
そうコメントした人こそが、ラウラだった。
私は彼女とすぐに仲良くなった。なぜなら彼女は同じ年齢だったからだ!
そして彼女が2016年に起きた地震を経験していることを知った。
震源地の近くにある村にいた彼女は、マグニチュード6.0の激しい揺れを体験した。
そして彼女の弟は、その地震で命を落とした。
その後彼女は心的外傷後ストレス障害と診断され、このグループに参加したようだった。
時は流れ、このときすでに2018年の夏になっていた。
私はもうすぐ14歳の誕生日を迎える。
そしてこの時間は、私達にとってとてもつらいものだった。
なぜなら姉が死んだ日が近づいてくるからだ。
なぜならその地震が起きた日が近づいてくるからだ。
私達は毎日電話をした。
病気のこと、自分自身についてのこと、学校のこと、そして将来のこと...。
そしてお互いがフラッシュバックに苦しむときは、まるで実際に手を繋ぐように支え合った。
2018年8月21日。
「今から私は静脈を切って死ぬ。今までありがとう、キアラ」
突然ラウラからWhatsAppでメッセージが届いた。
ちょうどイタリアのある島で起きた地震から1年が経ち、そしてラウラが被災した地震の日まであと3日である。
「ラウラ、今から会いに行ってもいい?私はあなたを失いたくない」
「うん、いいよ」
ラウラは現在ローマに住んでいる。
私たちの住むトスカーナとはかなり離れているけれど、私は親にローマ行きの往復券を購入してもらうよう交渉をした。
親は私に60ユーロを渡して、「行ってきなさい」と言ってくれた。
「ラウラ、今行くからね」
そして私は現在の様子を118(※警察)に電話をした。
ラウラとは文通もしていたため、お互いの住所を知っていたのだ。
「今からラウラさんの自宅に向かいます」と警察は言ってくれた。
WhatsAppから着信が来た。相手はラウラだった。
「キアラ...警察を呼んでくれてありがとう。今、病院にいる。キアラのおかげだよ、本当にありがとう。」
私はバスを乗り継いで、ちょうどフィレンツェの駅に着いたところだった。
「お母さん、まだ往復券は買っていないよ。ラウラは助かったから、今から帰るね」
私が玄関のドアを鳴らした瞬間、お母さんが私を抱きしめてくれた。
私は泣いた。
ボロボロになった母の腕が、思ったよりも強かったことを知った。
「お母さん...自殺したい人を助けるってこんなにつらいことなんだね」
「そうよ...あなたが『死にたい』とWhatsAppを送ったとき、どれだけつらい思いをしたか、わかった?」
「うん......」
「キアラの味方よ...私も...そしてみんなそう...だから、もう泣かないで...」
3日後、ラウラから連絡が来た。
「私は元気だから、心配しないでね」
ちょうどその日は震災から2年になる日だった。
私達はずっと電話をしていた。
スマートフォンの向こうで、ラウラは泣いていた。
PTSDによるフラッシュバックが、何度か起きていた。
私は、姉が死んだ直後に地震で死んだある女の子のことが、忘れられずにいた。
なぜなら彼女はラウラと同じフラツィオーネ(※分離集落)に住んでいたからだ。
テレビではRai(※イタリア放送協会)が地震の特集番組を放映していた。
私はそれをずっと見ていた。
あの地震がここまでひどい被害を引き起こしたなんて、私は知らずにいた。
なぜなら、あの地震が起きたときに私は入院中で、意識すらなかったのだから...。
「追悼式に行ってくる」
そう言ってラウラは電話を切った。
私はその追悼式の様子をテレビで見ていた。
最大被災地の街やそのフラツィオーネの様子が映し出されていた。
たくさんの人がたいまつを掲げて、そしてその地震で亡くなった人の遺影を掲げて、歩いていた。
日が暮れる前に見えそのた街の惨状を、私は忘れられずにいた。
あまりにも悲しく、悲惨で、悲劇的だった。
涙があふれて止まらなかった。
「ねえ、キアラ」
「何?」
「私、生きようと思ったの。あの日亡くなった弟の分まで、そして、あの日死んだ私の半分を生き返らせるために」
「私も生きる。あの日死んだお姉ちゃんの分まで、そしてあの日私の半分も死んだから...」
そして私は思い出した。
忘れていた「私」のことを。
あの日、姉が死んだ日以来、私は私を捨てていたのかもしれない。
私は私を忘れていたのかもしれない。
この被災地の現状をみて、私は思った。
私にもきっとできることはあるのでないか、ということを。
「ラウラ、私は心理学部に進むことにした。今決めたの。そして誰かを助けたい。例えば兄弟を亡くしたこどもたちとか」
「それはすごくいいね!私もそう前から思っていたの。」
私は、空を見て思った。
いつかお姉ちゃんに会える日まで、頑張ることに決めた。
いつかお姉ちゃんに会える日に、お姉ちゃんに自信をもって何かを報告できるようにしたいと思った。
お姉ちゃんが私を見守っていてくれるから頑張れるよ。ありがとう。
そう願いながら私は目を閉じて、祈った。
*
私はAlpha Test(※イタリアの大学入試用の問題集)を解いている。
問題集が〇と☑でいっぱいになっていくのが、快感だった。
ここまで本気で勉強したのははじめてだった。
いくらイタリアの大学入試が簡単だといわれても、私には絶対に不合格になれない理由があった。
そして、私は無事志望校に合格し、そして志望校を卒業した。
首席での卒業だった。
5年制課程が終わり、心理士の資格をとるための準備を進める。
毎日毎日勉強をしていた。
19時間30分。
1日に勉強した時間だ。
朝食10分、昼食40分、夕食70分。
睡眠2時間。
シャワーと休憩時間を合わせて30分。
眠い時は近所のバールでエスプレッソを飲みながら勉強した。
もしくは氷水を洗面器に入れて、そこに足を入れて勉強した。
おかげで、心理の試験にも合格した。
人生は、順調に見えた。
私には婚約者がいた。彼は私の古い傷も癒してくれるような優しい人だった。
彼は大学の心理学科で知り合った。
彼と仲良くなってからは毎日ti voglio bene(大好き)と言ってくれたし、彼とは毎日電話もした。
そんなある日...。
「118に電話をして!」
「誰か、救急車を!」
彼が交通事故に遭ったのだ。
彼は、1週間病院で意識不明になった。
1年間のリハビリを強いられた。
彼は私に決して弱音を吐かなかった。
彼の涙の一粒さえも私は見ていない。
私は、仕事ができなくなった。
その時の救急車のサイレン、流れる血、そして助けを呼ぶ声......。
何十年も前のことなのに、私は、まだ立ち直れていなかった。
お姉ちゃんの死から、私は立ち直れていなかった。